Obento Diary

息子弁当と自分弁当の記録。

#046 大根と鶏肉の煮物といなり寿司弁当

  • 大根と鶏肉の煮物 昨晩作ったもの
  • いなり寿司 昨晩作ったもの
  • 赤カブの甘酢漬け(市販)
  • いちご

 金曜日、職場に持参したお弁当です。

 全て昨晩作ったもの(晩ご飯のおかず)を取り置きし、今朝温め直しました。大根と鶏肉の煮物は意外にも美味しくできたので、大根を大量にスープ容器に入れました。酒、塩、砂糖、薄口醤油で味付けしましたが、鶏肉は手羽元を使ったせいか、鶏肉のいい出汁が出たのでしょうか?久しぶりのヒットです(大根は、予めお米と一緒に煮ています)。

 いなり寿司は、油揚げは出来合のものをつかっています。酢飯を作って詰めただけです。



(ここからは、地震の話....長文です)

 大地震が発生した2011年3月11日午後2時45分頃、私は都内の日暮里繊維街近くの職場におり、パソコン向かって仕事をしていました。

 「あれ、地震?」と微弱な揺れを感じながら仕事をするも、その揺れがどんどん大きくなってきます。経験もしたことのない強い揺れになり、その場にいた全員がその場に立ち上がりました。

 私が勤務する会社の自社ビルは免震構造の建物のため(免震構造ということは後から知ります)3階部分は非常に揺れ、怖くなって非常階段から外に出てしまいました。外に出ると、目の前の小学校の電柱がギシギシ音をたてて揺れ、駐車場に停めてあった大きなベンツは、いまにも前に進みそうな勢いで揺れていました(その揺れ幅が想像を絶するぐらいの激しさ)。恐怖からなのか、また大きな揺れなのか、私は立つことができなくなり、その場に座り込んでしまいました。

 揺れがおさまったときに自分の荷物を取りに行き、近くの公園に避難。

 防災ずきんを被って下校する小学生、「どこかに逃げよう!」と親御さんに抱きついて泣きじゃくる小さなお子さん。パトカーが頻繁に巡回パトロール....そんな日常とかけ離れた状況を見ているうちに、「これはただ事じゃない!」と、どんどん事の重大性を認識し、そのときに初めて家で留守番している小学6年の息子のことを考えました。

 たぶん、電車が停まっていて家には帰れないだろう。同じ都内で働いている夫も同じこと。家に息子をひとりにしておけない。とにかく連絡をとって、息子を姑宅に行くようにしなければ....。

 と頭の中の回路がフルスピードでうごめくなか、携帯電話が鳴りました。学校から帰宅したばかりの息子からの電話でした。食器棚が倒れ、家の中が凄いことになっていると息子から聞くも、とにかくすぐに祖母に電話し、迎えに来てもらうように祖母に言いなさい!と、息子に伝えました(姑は家から車で10分ぐらいのところに住んでいます)。

 余震は続くものの、とにかく職場に戻りました。

 ネットで情報収集するとともに、私は姑宅へ何度も電話。携帯電話は使えない状態になっていて、職場の上司からは「会社の電話を使っていい」という許可をいただき、会社の固定電話から何度も電話。昔、チケットぴあに何度も電話したのを超えるぐらいの勢いで30分間、何度も何度も姑宅へ電話し、ようやくつながりました。息子から姑宅へ電話がいっていたようで、姑は状況を把握。すぐに車で迎えに行ってくれるとのことでした。

 この後、家で留守番している息子へ電話しましたが、やはりそこから30分以上はつながらず、何度も何度も電話をかけ続けました。つながって話をしているときに姑が迎えに来てくれたので、そこで電話を切りました。

 その後は電車の運行情報がどうなっているかネットで調べながら、姑宅、実家、夫の携帯に電話をし続けましたが、一番つながりにくかったのは夫の携帯電話でした。携帯電話は便利便利だと言われても、災害時に一番役に立つのは固定電話や公衆電話。今回の事を機に公衆電話の価値が見直されるかもしれません。

 都内はJR、私鉄全線運行を取りやめてしまい、ならば車でもと思っても、首都高は通行禁止、下の道は大渋滞、タクシーは出動停止....ということを知るうちに「会社で夜を明かす」ことを覚悟。姑宅に居る息子にもそのことを伝え、夫とも連絡を取り合い、電車が動き出したら帰宅することにしました。

 会社から支給された菓子パンとカップ麺を食べましたが、ほとんど味わう気力もなく、「食べ物を胃袋に入れた」状態。コンタクトレンズを外しメガネにし、いつ避難してもいいように菓子パン半分、ペットボトルの水2本をバックに入れ、コートを着て靴を履いたまま(社内は通常部屋履きに履き替える)過ごしました。

 会社に残った人は併せて20人ぐらいだったでしょうか?

 歩いて帰宅する人も居ましたが、神奈川県、千葉県在住の方の多くは会社に残りました。職場の人が沢山居たので心細くなることはありませんでしたが、いつ帰れるのか分からず不安でいっぱいでした。2時半ぐらいになるとさすがに眠くなり、梱包用のビニールシート(プチプチのついている)や段ボールを床に敷き、コートを着たまま全員が仮眠。余震がくるたびに眼が覚めてしまい、「眠った」とはほど遠い状態でしたが、それでも横になるだけで疲れが取れるようでした。

  ....朝5時頃夫からかかってきた電話で眼が覚め、夫は地下鉄を乗り継いで小田急線に乗り帰宅するとのことでした。私はJR線が動かないとどうにもならないので結局9時頃まで会社で過ごし、9時ちょっと過ぎに会社を出ました。

 外は意外と通常通りで、駅前の立ち食いそば屋、ファーストフード、コーヒーショップは営業していたので、それを職場の人へ連絡しました(みんなお腹空いているので)。私自身も「電車に乗れなかったら、どこかお店のよって腹ごしらえをしながら電車を待てばいい」という気持ちなり、それがかえってよかったように思います。「冷静になること、気持ちに余裕を持つこと」は大切だと感じた瞬間でした。

 とりあえずそのまま駅へ向かい、ホームで電車を待つこと20分。たびたび流れるアナウンス。その当時、山手線は内回りのみ運行再開し、京浜東北線は上下線動いていましたが、本数が非常に少なく間隔が開いている状態。実際、京浜東北線の下りはすし詰めギュウギュウ状態。乗り込める状態ではなく、私はその後に来た山手線内回り電車に乗り込みました。

 最後尾の車両に乗ったこともあり、幸い車内は朝のラッシュ時よりも空いておりホッとしました。が、そんな安堵もつかの間、すぐに急停車しました(線路内人立ち入りが原因)。また、後続の電車が遅れているので時間調整のため田端駅で20分ほど停車。日暮里駅を出てから、巣鴨駅までなんと45分ぐらいかかり、私は巣鴨駅で下車しました。

 このまま乗っていれば新宿駅までたどり着けるとは思いましたが、このままどれだけの人が乗ってくるのか想像もできなかったこと、こうもたびたび停車しては、新宿にはいつたどり着けるのだろうと考え、時間はかかっても、動き出したばかりのJR山手線よりも地下鉄を乗り継いで新宿に向かった方がいいのではないかととっさに判断し、ほぼ反射的に巣鴨駅で下車したのです。

 巣鴨駅で都営三田線に乗り、神保町で都営新宿線へ乗り換え、新宿三丁目駅で下車。それぞれ10〜15分ほど電車を待ちましたが、途中急停車することもなく、すし詰めラッシュのように混雑することもなく、ほぼ順調といってよかったと思います。

 新宿三丁目駅は土地勘があります。普段買い物によくくるので、歩くことになっても不安になることがほとんどありませんでした。不安がなくなると人間お腹が空いてくるもので、紀伊國屋ビルの地下飲食街のファーストキッチンハンバーガー、サラダを食べました(ただし、味わう余裕もなく早食いで)。

 食べるものを食べたら、すぐに新宿駅小田急線ホームまで歩き、たまたま来ていた各駅停車に乗り込みました。座れたこともあり、座った瞬間に爆睡。起きたら最寄り駅で、慌てて電車を降り、タクシーに乗り帰宅。時計を見たら家に着いたのは午後1時をまわっていました。そしてそのまま爆睡。夜7時にようやく眼が覚めました。

 早朝都内を出た夫は9時半頃帰宅。夫がぐちゃぐちゃになっていた家の中を片付けてくれたので、私は地震直後の家の惨状を知りません。ただ、ねじ曲がってしまった食器棚一番下の引出のレール、割れてしまったグラスや食器を見ているうちに、ものすごい揺れだったのだと想像できました。

 生きている間にこのような大きな地震に遭わないだろう....とタカをくくっていたこともあります。でも、そういう気持ちが冷静さを失わせてしまうのだろうと思いました。

 今現在、東北を中心とする被災者の方々には心よりお見舞い申し上げるとともに、日本は地震国であり、いつ何時、自分に同じ事が降りかかるか分からない。「その時」を想定して、普段から災害時のマニュアル作り、連絡体系、家の中での安全確認を再度してみようと思います。

 お弁当とは関係のない話題でしたが、いまの自分のこの思いを忘れないようにと執筆しました。